洒脱で温厚で知的な硬骨の紳士

―瀬川昌久さんを悼む

村井 康司

 二〇二一年一二月二九日に九七歳で亡くなった瀬川昌久さんについて語りたい。瀬川さんの肩書は「音楽評論家」ということになっているが、その関心の範囲は狭義のジャズだけではなかった。ウィキペディアではこう紹介されている。

「瀬川昌久(せがわ まさひさ、1924年〈大正13年〉6月18日 – 2021年〈令和3年〉12月29日)は、日本の評論家。評論対象は、音楽(特にジャズ)、映画、ミュージカルと幅広い。日本ポピュラー音楽協会名誉会長。『月刊ミュージカル』(ミュージカル出版社)元編集長。」

 この記述を読んだ方が思い浮かべる瀬川さんのイメージは、おそらく「趣味人」「ディレッタント」「戦前からのアメリカ文化ファン」といったものだろう。そのイメージは必ずしも間違いではないが、音楽や映画やミュージカルについて語るその情熱と愛の深さは、いわゆる「趣味人」とはまったく異なる凄みを湛えたものだった。晩年に至るまで、瀬川さんは精力的に新しいCDを聴き、ライヴに出かけ、ミュージシャンたちに直接語りかけたり電話をしたりファクスを送ったりして、彼らの活動を激励し、アドバイスを与え続けていた。そして、瀬川さんの音楽にかける情熱は、プロのミュージシャンだけでなく、大学の学生バンドにも及んでいたのだ。特に、一九七〇年代末から八〇年代にかけて、瀬川さんに示唆を受けて、ご自宅で貴重な音源を聴かせてもらったいくつかの大学ビッグバンドが、それまでアマチュアもプロも含めてまったく演奏していなかったギル・エヴァンス・オーケストラの曲を採り上げるようになったことは、日本のビッグバンド界の歴史を変える大きな転機だったと思う。

 私が瀬川昌久さんに初めて会ったのは一九七八年、大学三年生のときだった。当時上智大学のジャズ・ビッグバンドでギターを弾いていた私は、上智・青山学院・立教の三大学が合同で開催するコンサート(のちに東大も加わって四大学コンサートとなる)の司会を瀬川さんにお願いするために、何人かの仲間と共に、当時彼が秘書室長を勤めていた富士銀行本店に赴いたのだった。夏の暑い盛りだったとはいえ、Tシャツにジーパン(中には短パンの者もいたような気がする)で銀行本店の応接室に乗り込んだ学生たちを、シックなスーツ姿の瀬川さんは快く迎えてくださり、司会のお願いを快諾してくれた。

 その当時の私の認識では、瀬川さんは「ビッグバンド・ジャズが大好きな評論家の先生」だったのだが、卒業後勤務した出版社で辞典の「ジャズ・ポピュラー音楽」関係の執筆をお願いしたり、音楽評論の末席に連なるようになってからはさまざまなコンサートにご一緒したりトーク・イベントのお相手をしたり、とお付き合いが深まるに連れ、この温厚でお洒落な紳士の、音楽や芸能に対する愛の深さと献身的な情熱、そして膨大な知識と信じられないほどの記憶力に圧倒されるようになっていった。

 ジャズ・ファンのほぼ全員がのけぞる瀬川さんの体験として、「チャーリー・パーカーの生演奏をニューヨークで観た」ということがある。一九五三年から五四年にかけて、銀行業務の研修のためにニューヨークに赴任した瀬川さんは、カーネギー・ホールでチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、ビリー・ホリデイ、スタン・ケントン楽団が出演するコンサートを観ているのだ。ジャズの概念を変えた「ビバップ」の創始者であるパーカーは五五年に三四歳で亡くなり、もちろん来日したことはなかった。当時仕事などでニューヨークにいた日本人の中で、パーカーのライヴを観た者は、おそらく瀬川さんだけだろう。その後五六年から五八年にかけてニューヨークに再赴任した瀬川さんは、映画『真夏の夜のジャズ』で知られる五八年のニューポート・ジャズ・フェスティヴァルにも出かけている。そして、瀬川さんの終生のアイドルにして友人となったギル・エヴァンス率いる十一人編成バンドのライヴも、彼はニューヨークで観たのだった。ギル・エヴァンスといえば、ギルが三度目の来日を果たした八三年に、当時ギルのレパートリーを演奏していた大学のOBを中心とした歓迎コンサートを、瀬川さんの肝いりで開催したことがあった。このときの様子については、『ギル・エヴァンス 音楽的生涯』(ローラン・キュニー著、中条省平訳 径書房 一九九六)の「エピローグ」で、東大ビッグバンドOBの加藤総夫氏が詳しく書いているので、ぜひそれを参照していただきたい。

 ジャズ、特にビッグバンド(むしろ「アンサンブル・ジャズ」と言うべきか?)と共に、瀬川昌久さんが最も愛し、研究していた分野が戦前・戦中の日本のジャズと芸能だった。父君の赴任先だったロンドンで幼少時に聴いたジェローム・カーンのミュージカル曲「フー?」をきっかけに洋楽に惹かれた瀬川さんは、学習院の中学生の頃から、浅草や日比谷の劇場に足繁く通って、レビューやジャズを聴いていたという。私が辞典の仕事をお願いしていた八〇年代前半、オンシアター自由劇場の「上海バンスキング」を観て戦前の日本ジャズに興味を持ったとお伝えすると、機会を見つけてディック・ミネや戦前派ジャズメンの生演奏に誘ってくださったのも懐かしい思い出だ。当時は深く考えずにライヴを楽しみ、復刻されたレコードを聴いていた私だが、今にして思うと、瀬川さんは日本が戦争に向かって坂道を転げ落ち、そして破滅的な戦争に突入したあの時代に、まさに命を賭けて、ありとあらゆる手段を講じて「ジャズ」を演奏していた音楽家たちを、心の底から愛し、尊敬していたのだと思う。昭和一六年一二月八日の夜に、トミー・ドーシー・オーケストラの「愛のカクテル」を大音量で聴いて両親にたしなめられた瀬川昌久は、筋金入りの、本来の意味での「リベラリスト」なのだった。

 九十歳を過ぎたあたりから、瀬川さんはそれまで語らなかった現在の日本の政治状況に対する危惧を発言するようになった。学習院初等科から東大法学部まで同期だった三島由紀夫について、瀬川さんは次のように語っている。戦前、三島は保田與重郎を経て蓑田胸喜に傾倒していたのだが、「天皇と神を結び付ける三島などの思想には、当時から納得できませんでした」(蓮實重彦との共著『アメリカから遠く離れて』河出書房新社 二〇二〇)。そして「わたしの戦争時代など考えると、東大の教授はいちおうみんな戦争に対する中立的な考えで、別に戦争を賛美する者はいなかったんです。ところがあの『新しい歴史教科書をつくる会』の発足から、東大教授のなかにも戦争を賛美する輩が出てきたというのは本当にね……東大も権威がなくなったと思いますよねえ(笑)。ああいう教授がどうして出てくるのか」(同)と、世の国粋主義化について憂えている。

 最後に、二〇一六年八月一日付け毎日新聞に「戦中に共通する反知性 敗戦から71年の今」という題名で瀬川さんが寄稿した文章の一節を引こう。「敗戦から71年たった今日の社会情勢を俯瞰する時、与党の一部の政治家たちの反対派に対する言動は、戦中に京都学派を攻撃し、ジャズを弾圧したのと同じような反知性的で軽率な妄想を感ずる。(略)当時の指導者たちの危険極まりない神がかった思想と言動の再現を許してはならないという思いで私は筆を執った。」

 瀬川さんは好きな音楽を思い切り演奏し、思い切り聴いて幸せを感じる「自由」を心から愛し、それを奪う者たちを憎んだ。洒脱で温厚で知的な硬骨の紳士、瀬川昌久にリスペクトを。

 (むらいこうじ・音楽評論家・「週刊読書人」2022年1月28日号掲載)